渡部陽一

海へ – 渡部陽一

(父)
最初はなだらかな曲線だった妻のお腹が
日ごとにふくらみを大きくしていって
今では すぐにもはちきれそうないきおいだ
君は待遠しくしていた私たちの 最初のこども
この世に現われるその瞬間を待ちながら
君は今 何を思って過ごしているのだろう

(娘)
父さん わたしはとても元気
毎日ちょっとずつ大きくなっています
ここは静かで安らかな世界だけど
母さんの胸をいっぱいにするそよ風の匂いも
表を通りすぎていくサオダケ売りの声も
わたし 母さんと一緒に残らず感じてる
父さんが いつも話しかけてくれるでしょう
わたしはちゃんと聞いていて 返事もしているよ

(父)
このあいだ「君は父さんのことが好きかな」と聞いたら
お腹の内側を 君は絶妙な間合いでぴくぴくと動いたね
あのときのうれしさを 私は忘れない
君は言葉をこえたところで やすやすと
私たちや世界と 交わっているのだろう

(娘)
父さんのところからは見えないものを わたしは見てる
生まれていないわたしは まだすべてとつながっているから
まだ自分が誰かもおぼえてるから
ねえ 父さん わたしがどうして
父さんのところへ生まれることになったのか 知っている?

(父)
君の眉や耳や手足の形
君を私たちそっくりにこしらえるのは遺伝子のしわざだけれど
君を私たちのところへ連れてくる それがだれのどんな力によるのか
私には知るすべもないよ

娘 父さんと母さんを選んだのは わたし

(父)
君が私たちのところへ生まれたいと思ったの?

(娘)
そう
少し前にとても大きな火山の噴火があって
鉄砲水でいくつもの町がこわされて
たくさんのいのちが失われたでしょう
何人もの人が泥流に押し流されて海まで行って
とうとう帰らなかったでしょう

(父)
あれは 家や林や道や
目に見えるものすべてが はかなく壊れていく
見たこともない光景だった
人間の知恵をこえた自然のすさまじさに
私たちは絶句して
ただ呆然と立ち尽くすだけだった

(娘)
流されたあのひとたちは
きゅうくつなからだを手ばなして
もといたところへ還っていったの
そしてわたしも その中のひとり
運ばれた先の海の底で 最後の呼吸をしたんだよ

(父)
たったひとりぼっちで
たけりくるう水に巻かれて
君は どんなにおそろしかったろうね
苦しかったろうね

(娘)
あんなにもがいた海の中で
ふっとちからが抜けて 突然わたしは自由になった
手足に羽が生えたと思ったくらい
あ、今、からだからはなれたんだと わたしにはわかって
うれしいようなかなしいような不思議な気持ちになった
大好きなひとたちにお別れを言いに 家をめざして飛んで行ったのだけど
誰もわたしに気づいてくれなかった

(父)
いとおしんだ家族はみんな 君を見失って
どれだけ心を痛め かなしんだことだろうか
たった今 まだ生まれていない君が
突然いなくなることを思ってさえ
私は涙がこらえきれないのに

(娘)
帰り着いた家では 息をしてないわたしのからだをかこんで
みんながむせぶように泣いていた
大好きな人たちがかなしむのを見るのは とてもつらかった
でもわたしは 生きてる間 たくさん愛してもらえたから
そして生きるのが素晴らしいことをよく知っていたから
早く生まれ変わって次の一生を始めたくて
それを考えると 矢も盾もたまらなくてこころがはずんだ
大好きなみんなに わたしは消えていないから
お願いだからもうかなしまないで と声をかけてあげたかった

(父)
そうか
そうして君はここに来ることにしたんだね
はるかな国から 永遠を一瞬で旅して
私たち夫婦を 親に選んで

(娘)
父さんと母さんは仲良しで やさしいのんびりやさんでしょう
わたし今度の一生では 時間いっぱい父さんと母さんに大切に愛されて
そんなふうにわたしも世界を愛するって 決めているの

(父)
まだ生まれてもいないのに
抱きしめてもいないのに
君の存在は私たちに もうかけがえがない
どうか 無事に生まれておいで
もう一度世界に愛されるために
生きることを愛することを見つけに

(娘)
ありがとう 父さん
わたしが生まれたら最初に お願い 海へ連れていって
そしたら海は
わたしがこの世からいなくなった場所ではなく
わたしが生まれてはじめて行った場所になるから

(父)
大切な君に 青い大きな海を贈ろう
私たちはみんな 愛と同じものでできている
どうか無事に生まれておいで
はじめての海を見るために
どうか 無事に生まれておいで
もう一度世界に愛されるために

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